教授プロフィール

高木 秀雄
早稲田大学 教育・総合科学学術院 教授
専門:構造地質学

経歴

1978年千葉大学理学部地学科卒業
1980年名古屋大学理学研究科博士前期課程修了
1982年早稲田大学教育学部地球科学教室助手に就任
1989年~1990年英国ロンドン大学Royal Holloway and Bedford New Collegeにて訪問研究員
2008年~継続中日本地質学会ジオパーク支援委員会 委員
日本ジオパーク委員会 委員 (現在は顧問)

子供のころ

 生まれは1955年1月27日,世田谷区新町,その後学部生時代までは,緑が丘,雪谷(雪谷小),川崎市馬絹(宮崎小),北区王子(王子第一小・清至中・文京高),新松戸など.引っ越しが多かったので,故郷と呼べる場所はとくにないが,当時は田舎だった馬絹が印象深い.
 父親は地質調査所物探部に電気検層の専門家として勤務していた.そのこともあり,子供のころから鉱物採集が好きだった.
 王子の公務員住宅では,上の階に住んでいた地質調査所の三梨さんの一言で,自転車が乗れるようになった.「倒れる方にハンドルを向けろ!」.

大学時代

 都立文京高校から1浪して千葉大学理学部地学科入学(1974年4月).地学科としては1期生.早稲田大学教育学部地学専修も合格したが,大学紛争の名残で早大正門の活動家が怖かったのと,授業料を考慮して千葉大へ(当時は国立大学の授業料が年36,000円だった).
 千葉大ではサイクリングクラブで全国をまわった.とくに1年時は夏合宿が北海道で650km,春合宿は九州で20日かけて1,300km走った.北海道で最初に行ったのは昭和新山(どうしても行きたかった).黄金道路の広尾までの90kmは半分以上が未舗装で工事中,風も強く,厳しかった.様似の民宿のみそ汁の味が今でも忘れられない.九州では別府からやまなみハイウェーにかけての上り坂がきつかったが,阿蘇の火口縁まで自転車をかつぎ上げた.まさか研究で再び様似や阿蘇に来るなど,想像もしなかった.学部時代はいまの早稲田の学生より,のんびりしていた.
 地学科では鉱物学講座に席を置き,岩尾周一教授,兼平慶一郎助教授のもとで,3年時に自分で選んだテーマで卒論を行った.テーマは山口県下関市幡生層中のオーソコーツァイト礫についての岩石学的検討.
 オーソコーツァイト(石英アレナイト)のような熟成度の高い砂岩は,日本のような変動帯ではごく局所的にしかできず,一方大陸地域の先カンブリア〜カンブリア系にはごく普通に大規模に発達することから,そのような岩石の礫が日本列島に存在する点で大陸とのつながりにロマンを感じたのがきっかけ.下関をやるきっかけは偶然だったが,そのこともあり,韓国にも興味があった.下関の「火の山ユースホステル」には連泊し,大変お世話になった.原付も貸していただき,効率が上がった.

大学院時代

 大学院は名古屋大学に進学.水谷伸治郎教授,吉田鎮男助教授,足立 守助手のもと,修士では卒論のテーマをまとめるべく検討を続け,足立先生の上麻生礫岩に続いて幡生層から日本最古に近い片麻岩礫もみつけたが,礫であるが故に限界も感じていた.M2のときはテーマについていろいろと悩んだが,岩石組織の検討をフィールドでやりたくなり,中央構造線沿いのマイロナイトをM2から本格的に開始した.当時の構造地質学研究室は私以外の院生・学部生はほとんど全員新しい付加体層序とそれをもとに展開する新たな構造地質学を目指し,放散虫をてがけていた.
 博士課程では長野県長谷村の中央構造線沿いのマイロナイトを検討した.よい地質図を描くためにひたすら山を歩き回った.ただし,構造地質学的な検討を進めることができるようになったのは,早稲田に助手として就職してからである.

助手時代

 1982年,博士課程2年終了時に,思いがけず,進学しなかった早稲田から声をかけていただいた.折しも100周年で大学は湧いていた.3年間の助手の間も,卒論学生をつけていただき,学生と議論しながら新たな手法を身につけつつ,フィールドを三重にも拡大して行った.その時の学生のやる気と研究に対するひたむきさが私の背中を押してくれた.有り難いことである.1986年に学位を取得.

ロンドン留学

 1989年度は在外研究でロンドン大学Royal Holloway & Bedford New CollegeでA. J. Barbar先生に世話になった.海外は当時初めてでもあり,英国国内をはじめ,ブルターニュやスイスアルプスにも足を延ばして,貴重な体験をすることができた.

現在

 早稲田に来てから四半世紀経過したが,いまでも研究室の院生,学部生は共同研究者として,お互いに切磋琢磨し続ける環境を保ちたい.にぎやかであっても,むしろそれが早稲田の良さであるのだから.